ソ連兵へ差し出された娘たち

書籍

書 籍:ソ連兵へ差し出された娘たち
著 者:平井美帆
出版社:集英社
発行日:2022年1月30日 第1刷(2022年8月15日発行 第6刷を購入)

【目次】
序章 「乙女の碑」の詩
第一章 満州への移住
第二章 敗戦と終結
第三章 ソ連兵への「接待」
第四章 女たちの引揚げ
第五章 負の烙印
第六章 集団の人柱
終章 現代と女の声

本作を敗戦後の満州で亡くなった女たちに捧げる。

覚悟―。敗戦国の女は、戦勝国の男から戦利品のような扱いを受ける。そのような展開がこれから訪れることを、関東軍や行政の上層部はわかっていたのだろうか。

開拓女塾では、貞操観念や大和魂を叩きこまれた。それなのに、敗戦になるや否や、兵隊にいっている家族を守るためにと、外国人兵らに犯されるのを強いられる。
「石垣がガタガタって、崩れる感じがした。ああ、女ってこんなにあわれなもんだ、こんなことさせられる。あー、大和撫子として育てられたのに。恥ずかしい、恥ずかしい」

一九四〇年代後半、引揚者は故郷に戻ってからも、まわりからお荷物扱いされ、住まいや職探しは容易ではなかった。身なりがみすぼらしい者、薄汚い者を見れば、「引揚者みたい」と子どもまでが指をさす始末である。開拓団から数年遅れてシベリア抑留から帰還した元兵士も、「アカ」などと言われ、まわりから蔑まれた。

九州人として、満州で辱めを受けることなく、日本国民のために自滅。大和撫子として満州で戦死してくれたことを誇りに思いたい―。
その言葉は善子を突き刺した。かやた女が犯されることなく死んだことを、誇りに思うと称える、かたや自分はみんなが生きるために犠牲になって、「汚れて」帰ってきた。日本人としてどういうふうに考えればいいのか。私は大和撫子ではなかったのか。

私はもっと……、もっともっと想像してみて欲しかったのだ。立ち止まってもらいたかった。もし、自分や自分の娘、姉妹が、どこにも逃げられず、絶対に避けられない状況において、見知らぬ軍人たちに犯されてこいと命じられたら、本当にどう感じるか? どれだけ苦しいか、恐怖か。生きる力が奪われていく難民暮らしのなか、どれだけのさらなる肉体的、精神的苦痛を伴うか―。

満州でのソ連兵の「蛮行」は従来指摘されてきた。ソ連軍が行った民間人に対する虐殺や暴力は人倫に悖るものである。一方で、ソ連兵からの蛮行ならば、およそ敗戦とソ連軍の占領、民間人の置き去りで語れるが、「接待」となると異なる様相を帯びる。ソ連兵らが”女探し”をしていたとはいえ、日本側の男も「接待」提供に加担していたのであり、男と男のあいだの交渉と取引によって生じた性暴力なのだ。

実態とのギャップを埋める役割として、「接待」という言葉が機能した。みね子の証言によれば、当時から団員たちは「接待」と呼んでいたという。強姦、レイプと呼べば犯罪行為そのものだが、「接待」と呼べば、客人をもてなす行為を想像させる。子どもの性被害が「いたずら」などと表現されてきたのと同様に、実態をぼかして、矮小化させる効果を持つ。

「減るもんじゃないから」

「戦争で男は無力になっちゃう。女は男の人に食い物にされる」

「戦争は勝っても、負けても、残酷。まして負けては女や子どもが犠牲になる」

「男が始めた戦争」

上述した内容は、本文からの引用です。
戦争における惨劇を女性の側から赤裸々に告白した書籍です。
男と男のあいだの交渉と取引によって、生じた性暴力……。
日本人の女性は、「接待」という言葉を巧みに利用されて、日本人の男からも見捨てられました。

日本史、世界史を問わず、歴史に関する書籍を読んでいると、「戦争」の事実を避けては通れません。
「人類の歴史は戦争の歴史」と言われるほどです。
これまでは、「○○戦争が生じた」「○○が勝利した」「多数の犠牲者が生じた」といった表面的な出来事しか把握してきませんでした。
しかし、こちらの書籍にように、戦場の第一線で被害に遭った人たちの声を聴くと、現場の生々しい悲惨さが一層伝わってきました。

逢坂冬馬さんの『同志少女よ、敵を撃て』について記載したブログでも記載しましたが、どうしても「戦利品=女」という構図があります。
それは、国どうしの戦争だけでなく、内戦や日本国内で生じたさまさまな戦いでも、女性は同様の扱いを受けたのではないでしょうか。

平井美帆さんの取材力、当時を生き抜いた女性たちがここまで告白した覚悟を感じさせられました。
ぜひ読んでほしい1冊です。

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